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創業者 芦田重之助の足跡
・日本のカーボン紙の歴史を作った男 創業者 芦田重之助の足跡・
ゼネラル株式会社の90年にわたる歴史は、創業者芦田重之助の先代、利兵衛が興した芦田永清堂について語る事から始めなければならない。
芦田利兵衛は1834(天保5)年、京都府福知山市近郊の芦田村に生まれる。この地は平家の落武者の里と伝えられ、住人の多くが芦田姓であり、ちなみに第二次大戦後間もなく総理大臣となった芦田均氏の出身地でもある。
利兵衛は、当時の風習に従い大阪の商家に奉公に上り、後、独立して筆、墨などを扱う文具商(芦田永清堂は氏の命名による)を、大阪市唐物町の心斎橋筋で営む事になる。利兵衛は、筆の名産地である有馬から腕利きの職人を呼び寄せ、極上の筆を卸問屋を通さずに自家製造するとともに、奈良の符坂玄林堂製の特注の墨を扱い好評を博した。その時すでに、芦田永清堂の扱い商品には自家特有のマークを刻印させ、他店では同じ商品が購入できないよう、現在でいうプライベートブランドの戦略をいち早く取り入れていた。
当時はどの商家も半紙を二つ折りにした大福帳が帳簿であり、筆、墨はいわばビジネスの必需品であった。とくに名筆といわれた『天然国宝普唐小階』『龍地水筆』『純狼豪筆』などの製品は、その優秀さで全国に知られ、遠く関東の桐生、足利の機業家達もわざわざ来阪し購入したといわれる。
また利兵衛は、ほとんどの同業者とは違い、座して購入客を待つ商法を取らず、市内に点在する商家、銀行などの得意先を直接訪問する販売方法で、次々と顧客を拡大し、芦田永清堂は大阪の有力文具商として発展を遂げていく。その利兵衛のビジネスの才を引き継ぐのが、重之助である。
芦田重之助は1880(明治13)年9月24日、富山県東砺波郡山田村に、柴田又一郎の三男として生まれる。日露戦争に召集され、戦線から無事帰還した後、1906(明治39)年、縁あって芦田利兵衛の婿養子として迎えられ、利兵衛の没後、芦田永清堂の事業を受け継ぎ、さらに業容を拡大する事となる。
時代は日露戦争に勝利した日本が、いわゆる列強の仲間入りを果たし、社会に近代化の波が押し寄せ、文具業界も従来の墨、筆からインク、ペン先へと需要が変わってきた。芦田永清堂も取扱商品を事務用品全般に拡大し時流への順応を図った。
その当時の大阪は東洋一の商都として発展を続け、大会社、銀行などが次々と設置され、芦田永清堂の納入先も順調に増加していく。重之助は、当時の報道によれば「氏は温厚の二字を以ってつきる程の人格者であり、加うるに稀に見る実践躬行の人にして、総ての業務に率先して勉励努力の範を示した」と、その人柄が描かれている。
重之助はさらに時代への積極的な対応を図り、当時の最新人気商品であるインクの自家製造を模索するが、そのプロセスの中で、インクよりも時代の先を読んだオフィス用品として、複写紙(カーボン紙)に着目、その開発と製造に傾注する。そしてその将来性を確信した重之助は、さらなる発展を期するために、1914(大正3)年、唐物町に「東洋複写紙製造合資会社」を設立した。ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発した年のことである。 当時、複写紙の使用先は、民間以外では郵便局の書留事務と、鉄道の貨物輸送の受渡が主であり、約8割が国産の和紙製品、残りが輸入品となっていた。重之助は、愛媛県川之江産の奉書紙に、刷毛でカーボンインクを塗る製法で複写紙の生産を開始した。
(唐物町の本社)
重之助は独自のアイデアで、油、色素の他に蝋を入れる製法を確立。この画期的な製品が好評を博す事となった。 その当時の商慣習では、製造元は商品を問屋に納入し、問屋がそれぞれのブランド(著名なものでは「キクスイ」「ベルベット」など)をつけて販売するのが一般的であった。しかし自社製品に絶対の自信と誇りを持っていた重之助は、安易に問屋の下請け加工の地位に留まることなく、自社のブランドで商品を販売する厳しい道を選択する。これが最初の自社ブランド「ミカド印」の複写紙である。
複写紙の製造が軌道に乗り、工場は大阪市東成区今里(当時はまだ大阪市ではなく、大阪府東成郡神路村字大今里)に移転する。工場の入口には、黒く塗った木製の大きな門があり、門柱には「芦田工場」と浮き彫り文字の入った看板がかけられていた。
工場内では十数人の従業員が、七輪に火を起こし、鍋でインクを溶かし、刷毛で1枚ずつ和紙にカーボンインクを塗っていくという作業を行っていた。この仕事はほとんど手作業で、しかも非常に汚れが激しく、とくに夏場は100℃以上になる熱にあおられ、全身汗みどろの濡れねずみという有様であったという。
また今里の工場ででき上がった商品は毎日、船場唐物町の本社(当時は店と言った)へ輸送するのだが、もちろんその頃トラックなどはなく、大八車を肩引きしガタガタ音を立てながら運ぶ重労働だった。ことに玉造から上本町二丁目に上がる東雲坂では、荷物の多い時は一回いくらで後押しを手伝う「後押し屋」の手伝いを借りたという。時代が下がり、市内の道路も整備され、自転車の後ろにリヤカーをつけて運ぶようになり、さらにオート三輪へと変わっていく事になる。
その頃、ほとんど手作業に頼っていた製造工程を改善するために、ドイツから塗工機械を購入したが、使用方法のノウハウがなく、工場のすみに長期間放置されていた。この機械を実際に稼働させる宿題を与えられたのが、後に二代目社長となる芦田寛蔵(重之助の三男)である。
寛蔵は1933(昭和8)年に、金沢高等専門学校応用化学料を卒業後、重之助の下で洋紙カーボンの開発に携わっていた。事業は順調に伸び、関西はもとより関東にも販路を拡大していた。
一方、世情は大正デモクラシーの中心人物、犬養首相が暗殺され(1932)、ドイツではヒットラー政権が誕生(1933)日本は国際連盟を脱退(1933)するなど、しだいに暗鬱さが忍び寄ってくる時代へとさしかかりつつあった。
そして1934(昭和9)年4月16日。重之助は東京出張中に急性肺炎で倒れ、55才の若さでこの世を去る。
あまりにも早過ぎる死であったが、業界のリーダーとして活躍を続けてきた重之助の偉業は、それぞれ子息たちに引き継がれる事となる。芦田永清堂は長兄の久一郎が亡父の名を襲名し継承。そして、寛蔵が複写紙製造を引き継ぎ、四男の正雄(三代目社長)も同社で販売を担当する事となる。
寛蔵は合資会社を一旦個人経営の「東洋複写紙化学工場」に改組。
そして1935(昭和10)年、かねてより開発を進めてきた、洋紙カーボンを「ゼネラルカーボン紙」と名づけ、発売に踏み切る。
「他社の技術を模倣せず、自社の独自技術で新しいものを作りたい」という信念を貫き通した重之助の夢を実現し、現在の社名の元となる次世代商品の誕生であった。