1934-1945ゼネラルブランドの誕生、洋紙カーボン紙の時代へ

 社業がますます発展しつつある1934(昭和9)年、重之助は東京出張中に病を得て急死。永清堂は長男の久一郎が重之助を襲名して跡を継ぎ、東洋複写紙製造合資会社は、前年学業を終えて入社し、洋紙カーボンの開発を行っていた三男の寛蔵が、急遽引き継ぐことになった。そして四男の正雄は専務として営業を担当し、社長である寛蔵は、製造と技術面を担当するという基本体制ができ上がった。
 そして1935(昭和10)年、洋紙カーボンを「ゼネラル」のブランドで発売し、ミカド印の和紙カーボンと並売を開始した。当初、ゼネラルカーボン紙は知名度も低く販売に苦労したが、品質の良さを認められ、急速に市場に浸透していった。

 私の住む阪急南茨木駅の近くに昭和59年にオープンした茨木市立・文化財資料館の「戦争と生活」というコーナーに戦時中のカーボン紙という事で当社の100枚入りカーボン紙が2箱、展示してあります。開館当初に見つけた時は本当に驚きました。東洋複写紙化学工場製とあるので昭和10年代に製造されたものだと思います。ですから50年以上前のものという事になります。タイプライタ用のいわゆる赤箱ですが、ゼネラルにもこんな物は無いでしょう。

 表に貼ってあるシールにはこうあります。「使用好適期間6月より9月まで此ノカーボン紙ハ上記ノ期間内使用に最モ適スル製品デス他ノ期間ハ多少印字二濃淡ガ出来マス故印書ノ節二工夫シテ下サイカーボン紙ハ戦時下重要資材ヲ以テ製造セル物ナルニ依り一枚デモ大切に御使用下サイ」
中身も入っており、まだ使えるかどうか試して見たい様な気がします。もし近くへ来られる機会があれば是非立寄って見て下さい。

大岡 美治子氏(昭和25年~昭和54年在籍)談




昭和16年6月21日
東洋会(社員の親睦会)特別例会
高知龍河洞にて

今里工場正門前に立つ
故芦田正雄(昭和初期撮影)

昭和初期の朝礼風景

昭和14年3月23日 秋季運動会 伊勢神宮にて。

昭和14年10月25日 東洋複写紙商店工場
産業報国会結成式
職場にも戦争の影が忍び寄る

昭和15年3月21日
未成年男子の親睦会として
朋友会(ぽんゆうかい)発足
第1回例会で四条畷神社へ向かう。

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